丸善150周年

History

1869年にはじまる、
丸善の150年。
2019年1月。
丸善は、未来へと続く歴史の新たなページをひらきます。

  • 1869

    日本で初の会社組織

    丸屋商社之記

    明治2年1月1日、丸屋商社の設立趣意書「丸屋商社之記」により、現在でいう出資者と従業員を明確に区別する現代的株式会社がスタートした。江戸から続く日本の商家は個人世襲の経営が一般的だったが破綻することもあった。そういう中で、適材適所の人材配置により事業を進め、企業の永続を望んだ。

  • 1869

    早矢仕有的

    創業者・早矢仕有的

    丸善の創業者。元は医師だったが、慶應義塾に入塾し福澤諭吉から英学、経済を学ぶ。諭吉は有的に実業の才能を認め、実業家・有的を支援する。有的が入塾して2年後の明治2年、自らが居住する横浜に「丸屋商社」を創業した。

  • 1869

    各店舗の起源

    創業の地・横浜の店構え

    明治2年に横浜で「丸屋善八店」を開店し、翌年には日本橋(現在の日本橋店と同じ場所)に「丸屋善七店(日本橋店)」を開店。以後、唐物店、指物店、薬店などを日本橋に開く。また、明治4年に大阪で「丸屋善蔵店」を、明治5年には京都で「丸屋善吉店」など支店を開設。当時、旧帝国大学の開校に合わせて出店した。

  • 1870年初

    中村道太

    中村道太

    福澤諭吉に師事し、慶應義塾を真似て、英学、洋算、商業訓練などを行う教育所を設立していた縁で、丸善へ入社。簿記講習の講師役を務めたほか、福澤諭吉、大隈重信、早矢仕有的が設立した日本初の為替銀行である「横浜正金銀行(のちの東京銀行、現・三菱UFJ銀行)」の初代頭取も務めた。

  • 1870年代

    ハヤシライス

    おなじみの早矢仕ライス(画像は現代)

    ハヤシライスの命名には諸説あり、「丸善百年史」に記述されている、幕末か明治の初めに、早矢仕有的が友人たちへ有り合わせの肉や野菜をゴッタ煮にして飯を添えて饗応するのが常であったことから「早矢仕ライス」と呼ぶようになった、というのもその一つである。この他にも、創業の頃の丸善は閉店後に開かれた英語や洋式簿記を学ぶ講習会で、「見習生(世間で言う丁稚)」向けに栄養と消化に良い食べ物を、という考えから、まだ一般的ではなかった牛肉の効用を知っている「医師・早矢仕有的」が考えて食べさせたという説や、医師として病人の滋養をつけるために考案したという説 など、丸善にゆかりの説が複数ある。

  • 1872

    金澤井吉

    店では「萬吉」を通り名
    とした金澤井吉

    明治5年に丸善へ入社。店での通り名を「萬吉」と言い、一通りの外国語に通じ、後には洋書部の主任として輸入にあたった。常に輸入される商品に敬意を払い、その宣伝を怠らなかった。スタイログラフィック・ペンがはじめて輸入された当時、非常に熱心に普及につとめたことから「萬さんの筆」「万年も使える筆」と呼ぶようになり、これが転じて「萬年筆」という名称になったという説がある。

  • 1873

    簿記講習

    福澤諭吉が翻訳した『帳合之法』

    明治6年にブライアント、ストラットン共著の商業簿記の教科書を福澤諭吉が「帳合之法」と題して翻訳。日本における簿記学の最初の文献で、これを教科書とした講習を明治6年7月から店内で行った。講師は明治5年入社の中村道太。
    明治8年に一橋大学の前身が商法講習所を開き、これが日本における簿記講習の最初として知られているが、丸善はこれに先立って西洋の複式簿記の講習を始めていた。

  • 1874

    死亡請負規則

    社員の社内制度(福利厚生)の一つとして作られた。内容は、働社中(従業員)が在職中に死亡してしまうとその家族が路頭に迷うため、予め在職中に一定の金額を積立ておいて働社中(従業員)が死亡するのと同時に一定の金額を給付するというもの。
    後に役員の阿部泰蔵がこの制度を引き継ぎ、わが国最初の生命保険会社である明治生命を明治14年に創立した。

  • 1876

    マッチの製造

    丸善で取り扱ったのは新燧社の製品。明治10年の第一回内国勧業博覧会では二等の鳳紋章を授与されている。丸善は独占販売の契約を結んだ。

  • 1878

    丸善インキ

    後年のアテナインキ瓶・陶器など

    丸善が創業間もない頃の日本では、学校と学生の増加に伴いインキに対する需要が多かったものの、輸入インキは高価すぎ、かといって家内工業で製造されたような代物では品質がよろしくないという事情に着目し、丸善工作部にて筆記用インキを製造した。 このインキは、明治14年に開かれた「第二回内国勧業博覧会」で有功賞を受賞した。後の「丸善インキ」「アテナインキ」として丸善の一時代を築いた。

  • 1879

    洋書販売目録(創業期)

    明治12年の『発兌書目』

    明治12年に図書販売目録を発行。その和書に関するものは実物が保存されている。明治13年頃に発行されたらしい洋書に関するものは実物が残っておらず、現存する最古のものは明治16年発行。明治元年版の「慶應義塾之記」には慶應義塾の日課表があり、学科や教科書を知ることができる。ここに記載のある洋書は、丸善が初期に輸入した代表的なものであったと考えられる。(ウェーランドの啓示書、クアッケンボスの合衆国史、窮理書、パーレーの万国史、コーミングの人身窮理書、コーネルの地理書など)

  • 1880年前後

    店舗の様子(明治)

    明治初期の日本橋の店構え

    明治時代の店舗は江戸時代からの商家を借りた店舗で、客は土間に立ち、または椅子や上り框(かまち)に腰を掛けて、店員に書肆の名を云って注文すると、店員はこれに応じて階下の書棚や二階の書庫から書籍を取り出した。冬は火鉢を、暖かくなると大きい煙草盆を出して接待した。これが江戸時代以来のすべての書店の伝統的な販売方法。
    洋書を買うためにヨーロッパ人がよく来店したが、靴を脱ぐ習慣がないために、そのまま畳の上に土足で上がることが多かった。店員はそのたびに「Please take off your shoes(どうか靴をお脱ぎください)」と注意したという。古参の英語の巧みな店員がいたときは良いが、新米で会話がろくにできないときは、手帖を開きながら「プリーズ・テイキ・オフ」というが通じないために、構わず靴のまま上がられ、「プリーズ、プリーズ」を連発しながら後を追いかけたことも珍しく無かったそうである。

  • 1882

    『新体詩抄』

    日本近代詩の初の単行本
    『新体詩抄』

    明治の初めから自然科学に関する書籍を出版した丸善として異彩を放つばかりでなく、日本の近代詩の最初の単行本としても稀有の価値を持つ、明治の新詩の祖先。
    出版人である井上哲次郎が、シェークスピアやミルトン、スペンサーらの味わいを日本の読書社会に導き入れたいという考えでまとめ、当時東京店支配人だった小柳津要人に相談して快諾。外山正一「抜刀隊の詩」など、三人の作詩訳詩あわせて19篇の構成。幸田露伴や日夏耿之介からは手厳しい批評もあったが、外山が勝海舟に一冊贈ると勝海舟も喜んで新体詩を試みたという。

  • 1884

    万年筆

    カウスの
    スタイログラフィックペンの広告

    丸善が万年筆を初めて取寄せたのが明治17年で、「カウスのスタイログラフィックペン」というもの。その当時の形は軸先に針が少しのぞいており、紙に軸先をつけると針が引っ込み、周りからインキが流れ出るというものだった。その後、 現在の形である「Fountain Pen(泉筆)」を輸入したのは明治28年、米国製ウォーターマン萬年筆だった。
    当時の初任給が30円程度だった時代に、2円50銭から14円(装飾付は65円迄)という値の張る商品で、特に力を入れて販売したのは10円前後のオノト万年筆だったという。

  • 1886

    『改正増補和英英和語林集成』ヘボン

    『改正増補和英英和語林集成』
    (画像は第四版)

    丸善の出版事業は、早くに欧文の書籍の出版を手がけたが、ヘボン式文字のヘボンによる編纂のこの辞書は特筆すべきもので、第三版から丸善発行(1867年の第一版、明治5年の第二版は上海の出版社)。和英3,000語、英和5,000語の第二版の約二倍の語彙数だった。ちなみに、早矢仕はヘボンの下で西洋医学を学んだ。

  • 1890

    電話

    明治期の包装紙
    (電話番号に28番の表記が残る)

    明治23年に電話交換規則が交付され、初めて民間にも利用されるようになった。丸善はこの時期に早速加入し、28番の番号を獲得した。同時期の加入者人名簿では、三井物産と日本銀行の間に名を列している。新しい物好きな店風のあらわれであったが、実利にもなり、地方からの直接注文が急激に増大した。

  • 1897

    『学鐙』

    『學の燈』第一号

    明治30年3月に創刊、以来現在に至るまで続けて発行されてきた最古の企業PR誌。創刊時の誌名『學の燈』に托したように、一企業のPRを超えて広く日本の学問の世界に寄与するため、また欧米の文化受容の窓口としての目的で一貫して編集されてきた。
    本誌が本格的な学術エッセイ誌として内容を整えたのは『學燈』と改めた明治35(1902)年からで(翌年から『學鐙』と記載)、作家・文芸評論家として活躍していた内田魯庵を編集長に迎えた頃から。この年の執筆者には、坪井正五郎・坪内雄蔵(逍遙)・戸川残花・志賀重昂・森林太郎(鷗外)・井上哲次郎などの名前がみえ、以来、本誌には日本を代表する学者、文芸家、言論人が執筆しており、明治・大正・昭和・平成の四代に亘る文化の証言者としての意義が大きい。

  • 1900年代

    『復活』トルストイ

    『學鐙』の広告

    ロシア文学者でもある學鐙編集長・内田魯庵による翻訳。

  • 1900

    タイプライター

    ウェリントンタイプライターNo2

    明治33年に「ウェリントンタイプライターNo2」という英文タイプライターを初輸入。英文のタイプライターゆえ漢字を駆使する日本では希望者を見込めないのではという見方もあったものの、実際には希望者が存外に多く、夜には店の一角で、習練のため夜学を開くなど、盛況を呈した。そして外国関係商店、外務省などの諸官庁、大学へと次第に拡がり、タイピングする女性たちが一種のエリート意識を持つ職業にもなった。
    ちなみに「ウェリントンタイプライターNo2」という名称は、初めに「第1号」があったわけではなく、「ウェリントン」というイギリスの大英雄に遠慮して、はなから「第2号」と名づけたイギリス人のユーモアだというエピソードがある。

  • 1902

    大英百科全書(エンサイクロペディア・ブリタニカ)』月賦販売

    ロンドンタイムズジャパンの新聞全面広告

    明治35年から明治38年にかけて売り出された『大英百科全書(ENCYCLOPEDIA BRITANICA)』は、非常に高額な商品だったものの、伊藤博文や徳富蘆花などの政治家・小説家・学者・宮家・企業等がこぞって買い求めたという。學鐙編集長の内田魯庵によるロンドンタイムズ日本支社の「新聞全面広告」という仕掛けと、書籍では初めてとなる月賦販売など、アイデア豊富な販売手法も奏功した。
    なお、その当時の出版物と比較すると、ダーウィンの『種の起源』が「2円では高いから50銭の廉価版を作れ!」という要望があった時代に、『大英百科全書』は百数十円という高額商品だった。これをわずか5円の前金で一括送付するという販売方法からは、内田魯庵の太っ腹な人物をうかがい知ることができる。

  • 1902

    作家夏目漱石の誕生

    明治38年1月号『學鐙』の巻頭

    『学鐙』明治38年の新年号巻頭に夏目金之助(漱石)の『カーライル博物館』を掲載。これはホトトギスに発表された『吾輩は猫である』、帝国文学の『倫敦塔』と同時期の作品。俳人としての「漱石」ではなく、英文学者の夏目金之助に非ず、これにより作家「夏目漱石」が誕生した。

  • 1902

    文学雑誌『白樺』発行

    白樺派の代表的な
    小説家・武者小路実篤

    店頭にならぶ小説を大陸文学に一変したのは田山花袋らの自然主義者であり、詩を一変したのは上田敏ら象徴派詩人であったのと同じように、絵画をゴッホやセザンヌ、ルノアールに移したのが武者小路実篤らの白樺派だった。 武者小路は「丸善の初っさんと呼んでいた人に頼んで、丸善を通して西洋から印象派というドイツの本をとった。その口絵にゴッホの絵の複製が一枚入っていて初めてゴッホはこういう絵かきなのか、ということを知った。カタログを見て、画の複製を丸善を通して注文した。その複製のうちにゴッホが10枚くらいあったと思うが、その一つ一つが僕たちを興奮させた。」と語っている。

  • 1904

    丸善夜学会

    第一回丸善夜学会卒業式

    明治38年以後、店員のために寄宿舎の4号室で夜学が開始された。先生は東京帝国大学の学生二人を招き、当時巷間にも見られた寺子屋式家塾のように、畳敷きの上に食卓を並べ机代わりにして勉強した。ポストグラヂュエート・コースを設け、優秀なものを選抜して英語学校・商業学校の夜間部に通学させ、青年社員奨学の道を拓いた。
    明治44年には学校組織にならった制度に改め、「丸善夜学会」「丸善夜学校」「丸善商業学校」と称した。会長には金澤末吉が就任。

  • 1905

    クリスマス流行

    學鐙明治41年12月号に
    掲載されたクリスマスの広告

    クリスマスはキリスト教本来の行事ではなく、サンタクロースはアメリカ人の発明。福沢諭吉が渡米から持ち帰ったウィルソン読本、明治時代全国に広くわたったニュー・ナショナル読本などにクリスマスの記事があり、日本にはこのアメリカ読本がクリスマスの知識として広まった。丸善はこのアメリカ読本を全国に普及した。

  • 1910

    赤煉瓦造りの本社

    日本初の鉄骨建築であった赤煉瓦の本社ビル

    現在の丸善日本橋店の場所に、明治43年に竣工した赤煉瓦造リの本社社屋。日本鉄骨建築の先駆者・佐野利器(さの・としかた)博士の設計により、4階までのエレベーターが設備された我国最初の鉄骨建築として威容を示す。正面玄関には、当時ヨーロッパ留学から帰国した新進気鋭の彫刻家・新海竹太郎の手長足長の彫刻を配す。帝国ホテルでの落成披露パーティには記者として徳富蘇峰、夏目漱石などが出席。(この社屋は大正12年の関東大震災発生後の猛火に包まれ全焼。)

  • 1910

    書籍売場風景

    赤煉瓦の本社2階(洋書売場)

    夏目漱石の『こころ』、芥川龍之介の『歯車』などで度々表現される「丸善の2階」。これは赤煉瓦造りの日本橋店の2階洋書売場のことである。中でも芥川は洋書をたくさん購入した人物で、「丸善の二階」と題した短歌も残している。
    しぐれふる町を幽(かそ)けみここにして 海彼の本をめでにけるかも

  • 1914

    米国製ローヤル・タイプライター

    ローヤル・タイプライター

    「ウェリントンタイプライターNo2」を初輸入して以降も、明治期後半までに「デンスモアタイプライター」「フランクリンタイプライター」「オリバータイプライター」を日本へ紹介。大正3年には、近代的な機能と性能をもった米国製「ローヤルタイプライターNo5」の、日本および満州国の総代理店となって販売に力を注いだ。販売価格は「No5号機」で195円、型・機能を改良した「№10号機」で240円と、一般家庭でも無理ではない価格での提供だったが、更なる家庭への普及を目指し、「コロナポータブルタイプライター」の国内一手販売権を得て一台100円の特価で販売した。300台限定ということもあり、あっという間に販売を締切る盛況ぶりだったという。

  • 1914

    バーバリー・レインコート

    バーバリーのブランドラベル
    (丸善とのダブルネーム)

    大正3年、それまでゴム引きの雨具しかなかったところへ、英国バーバリー社の布製レインコートを初輸入。以後、「バーバリーと言えば丸善」と称されるに至った。丸善のバーバリーレインコートは、英国バーバリーのロンドン工場で日本人サイズ向けに縫製したもので、販売価格も大変に高価であった。

  • 1923

    丸善の火災

    関東大震災で焼失・倒壊した赤煉瓦の本社

    丸善は創業以来、4度も火災に見舞われている。
    1度目は明治9年11月に隣家からの火災で類焼。書店、唐物店が全焼したが、店の奥に住んでいた早矢仕有的一家は翌2月には旧居に戻っている。
    2度目は明治42年で、これも隣家からの火災で類焼。重要帳簿の一部を持ち出すのがやっとで、帳簿の大部分と商品全部が灰燼に帰した。稀覯書ではシーボルトの『日本動物誌』『日本植物誌』が焼失。この様子を内田魯庵 は『灰燼十万巻』に記している。 3度目は関東大震災で、現在の三越付近から起きた火災が風に煽られ地震に耐えた赤煉瓦の本社ビルを全焼させた。
    4度目は東京大空襲により、一部疎開させた商品や書類を除き全焼した。

  • 1924

    『理科年表』

    大正14年『理科年表』初版

    大正14年、当時の日本は、国をあげて科学教育の振興につとめており、科学の各分野の基礎となる資料・数値情報を集め、国民に広く普及させることを目的に、国立天文台の前身である東京天文台が編纂し、丸善が発売したのが始まり。
    丸善は、東京天文台編『理科年表』の第一冊から昭和18年の第十九冊までの版を、払い下げを受ける形式で発売所となった。第二次世界大戦の戦局が厳しくなった昭和19年から戦後の21年までの三年間は、紙・インクなど物資の調達も難しく、日本の教育、学問も庇護されなかった時代背景もあり、『理科年表』は発行されていない。昭和22年に第二十冊が発行され、このときから名実共に丸善が発行所となった。

  • 1930年前後

    丸善アテナ万年筆

    『學鐙』の広告

    丸善が国産万年筆の製造に着手したのは大正3・4年頃で、専属下請工場に舶来万年筆を模して製造させた。ゼニス万年筆、グローリー万年筆、オリオン万年筆、アルビオン万年筆の製造を経て、大正14年頃から丸善アテナ万年筆が店頭を飾る。デザイン・書き味などにおいて舶来品に劣らず、人気商品となった。昭和13年からは自主製造とした。

  • 1936

    折り畳み傘

    『丸善百年史』に掲載されている挿絵

    丸善と洋傘の歴史は、明治31年以前に英国フォックス社日本代理店を通じて洋傘・日傘の骨を輸入し、これに国産の布地を張って売ったことから始まる。〔当時は「丸善洋物卸店(丸善唐物店から改称)〕
    その後改良を重ね、洋傘は紳士に、日傘は婦人をターゲットにして売り出したが、高価ゆえ一般層までは普及しなかった。そこで昭和7年に手頃な値段の雨傘を英国から輸入したことで好評を得る。さらに昭和11年に「折り畳み傘」を、丸善の創意工夫によって発明・製造したことで、一般層にまで珍重されるに至った。この商品は「新案特許第201789号」で登録されている。

  • 1938

    社旗と社歌

    北原白秋の直筆の作詩と
    山田耕筰の直筆の楽譜

    社旗は、従業員の士気を鼓舞する象徴となるものとして、昭和12年に制定。日華事変が起きた時期でもあり、旗が組織を代表するという機運が高まっていた時代背景もあった。制定された社旗は、紫紺の地に「マルMマーク」が白い糸で刺繍され、旗の三方を金色の房で装飾したもの。昭和15年1月元旦から本支店一斉に掲揚することを決め、これに先立つ昭和14年11月に、日本橋の氏神である日枝神社の神官による入魂式を行っている。
    社歌は、会社を代表する社歌の制定を希望する声が若手社員から起こり、昭和13年に北原白秋の作詞、山田耕作の作曲という当時の流行歌コンビによる「風に見よ」が完成した。

  • 1954

    丸善本の図書館

    主として顧客の研究の便に供すること、そして社員の洋書に関する知識の涵養に資することを目的として昭和29年に開設。レファレンス図書館としての役割を果たした。(平成21年に閉館)

  • 1958

    季刊文芸誌『聲(こえ)』

    『聲』全10巻

    “戦後派”作家・評論家が集った「鉢の木会」メンバー中村光夫・大岡昇平・福田恆存・吉田健一・三島由紀夫・吉川逸治・神西清が責任編集として編纂した文芸雑誌。延べ90名の、のちに大成する新人作家たちが作品を発表。「書きたいものを書きたいときに書きたいだけ書く」というコンセプトで編集・発刊され、昭和33年月から昭和36年1月の2年半の間に10号まで発行。戦後の経済発展のさなかに、それぞれの作品を文語体で表現した前衛的な試み。

  • 1959

    世界の丸善

    日本橋店でサインに応じる
    サマセット・モーム

    昭和34年11月にサマセット・モームが日本に来日したのを機に「サマセット・モーム展覧会」を開催。開会式に列するために来店したが、ファンが携えてきた自著へのサインに応じたという。

  • 1985・1986

    丸善百年史

    木村毅・植村清二・中西敬二郎・西田長壽によって執筆された1680頁からなる社史。編纂に着手してから16年の歳月を経て刊行。

  • 1987

    グーテンベルク『42行聖書』

    丸善主催の展示会時のカタログ

    昭和62年10月22日午後7時30分(NY時間)、クリスティーズオークションで『グーテンベルグの四十二行聖書』を490万ドルで落札。これにより、羅針盤、火薬の発明と共にルネッサンス期の三大発明と言われるグーテンベルグの活版印刷本を、アジアへ初めて持ち込んだ。丸善が落札してからは日本橋店等にて展示会を開き、皇族方が来場されるなど盛況を博した。平成8年に慶應義塾大学へ譲渡。

  • 1989

    新厨房楽・ハヤシビーフ

    新厨房楽と本型の化粧箱

    丸善創業120周年のときに、従業員のアイデアから商品化されたハヤシビーフの缶詰(2人前)。本型の化粧箱は歳暮、中元の贈答用としても重宝され人気商品となった。その後、カレービーフ、ハヤシポーク、カレーポークなどのラインナップが登場し、現在はレトルト版も販売。丸善創業150周年の記念商品として、ハヤシビーフ(飛騨牛)、タンシチューの各1人前を販売。

  • 2004

    丸の内本店開店

    丸善・丸の内本店の外観

    東京駅丸の内側の再開発エリアの商業施設・丸の内オアゾに、当時日本最大級の面積を誇る丸の内本店を開店。1階から4階の延べ1,750坪の売場は、和書、洋書、文具、カフェ、ギャラリー等で構成され、今では普通の和書のロケーション検索機(キオスク端末)も設置。

  • 2004

    日本橋店建て替え

    昭和27年〜平成16年の本社ビル

    第二次世界大戦の東京大空襲で本社ビルを焼失後、木造の仮設建物を経て昭和27年に建立したビルは、屋上にゴルフ練習場を設けるなど店舗機能としてだけではなく親しまれたが、丸の内本店開店の翌月、平成16年10月に建立後52年をもって老朽化のため建替えとなった。平成19年3月に再開店し、ご来店のお客より「お帰りなさい」という言葉で祝福を受けた。

  • 2009

    松丸本舗

    松岡正剛がプロデュースした松丸本舗

    平成21年10月に丸の内本4階の洋書売場を改装し、知の巨人と称される編集者・松岡正剛氏プロデュースによるショップインショップ「松丸本舗」をオープン。わずか65坪の空間に約5万冊を設置し、本が持つ世界の拡がりを表現した独創的な陳列で各メディアを賑わせたが、惜しまれつつ平成24年に閉店。

  • 2009

    『「學鐙」を読む』

    紅野敏郎著『「學鐙」を読む』

    近代日本文学研究の第一人者であった故・紅野敏郎(早稲田大学名誉教授)が、寄稿が多かった「學鐙」の筆者ごとに、筆者にまつわる話と寄稿文を整理して「學鐙」に長期連載していたものを単行本にした。単行本化にあたっては、丸善からではなく、まだ丸善CHIホールディングス(MCH)の傘下になる前の旧M雄松堂出版から刊行。

  • 2010

    TRCと経営統合しホールディングスを設立

    平成22年2月、図書館流通センター(TRC)と経営統合し、持ち株会社CHIグループM(現・丸善CHIホールディングスM)を設立。

  • 2010

    ジュンク堂書店との提携

    TRCとの経営統合を検討していた平成21年夏から、持ち株会社への参加を視野に提携する。平成22年8月、丸善の店舗事業部を分社して子会社(丸善書店(株))にした後、翌年2月に丸善CHIホールディングス(MCH)の直接の子会社となり、かつMジュンク堂書店もMCHの傘下となった。平成27年にMCH傘下で小売店舗を営む丸善書店(株)と(株)ジュンク堂書店が合併し、(株)丸善ジュンク堂書店となった。

  • 2011

    ワールド・アンティーク・ブック・プラザ

    平成23年11 月25 日、丸善・日本橋店3 階にショップインショップの形式で開店。長年の洋古書取引の信頼関係から実現した、世界11カ国から20社余の著名なアンティーク・ブックショップから成るブック・プラザ。1,000冊以上のアンティーク・ブックを常備。

  • 2016

    雄松堂書店との統合

    丸善雄松堂(株)のコーポレートロゴ

    (株)雄松堂書店は平成23年2月から丸善CHIホールディングス(MCH)の傘下となっていたが、丸善と同様に、教育・研究機関へ学術情報やコンテンツを提供していたことから、両社を合併することで互いの強みを最大発揮できると判断し、平成28年2月に経営統合した。これに合わせ、明治26年から続いた「丸善(株)」の名称を「丸善雄松堂(株)」に変更した。